10代の地図帳】

ふらふらっと寄席に歩みこんで、みんなでゲラゲラ笑って、落語って心を溶かす足湯のようなもの 

 ある日の池袋演芸場。満員御礼の熱気溢れる会場に出囃子『さつまさ』が流れると、客のボルテージは最高潮になる。落語家・春風亭一之輔さん(40)。多彩な持ちネタに変幻自在の語り口が人気の時代の寵児だ。古典落語に絶妙のアレンジを加える独特のセンスは他の追随を許さない。見るものを惹き付ける天賦の才、その十代を訊いた。 

 幼いころの風景は

 千葉の野田の生まれなんですが、ひとことで言うなら「ベッドタウン」かな。とはいえ、それほど人口は密集してもいない……、どこにでもあるような普通の田舎街でしたね。

 どんなお子さんでしたか

 小さいころはどちらかと言えば人見知りの、大人しい子どもでしたね。いつも、年の離れた3人の姉にくっついてまわってた。

 小学校時代の思い出は

 みんながやっているから、と、少年野球に入ってみたり、姉も通っているし、と、そろばんや書道を習ったり……。あとはもう、本当にそのへんの原っぱでサッカーをする。あるいは、空き地に、『ビックリマンシール』を持ち寄り見せ合う。近所の子どもたちが自然に集まってはじまるような、どこにでもある光景があのころの日常だった。

 そのころ夢中だったのは

 特にこれといってなかったけれど、テレビはよく見ていましたね。うちはとにかく、一日中ずっとテレビがついているような感じの家だった。歌番組、お笑い番組、バラエティー、ニュース……学校から帰ると、すぐに姉の傍に座り込み、一心にブラウン管を見つめた。

 でもいま思うと、一番下の姉でも7つ違いでしたから、大人が見るものを一緒に見ていたわけです。

 話すのが好きになったのは

 小学校4年生ぐらいのときに、朝の会で「1分間スピーチ」のようなものがあった。押し出されるように引っ張りだされ、苦手な人前に立たされる。嫌だな、と思った。ところが、意を決して適当に考えた創作話を披露すると、学友たちは顔を見合わせ、楽しげに口角をあげたんです。そのときはじめて、人前で話す楽しさを知った。

 落語との出会いは

 小学校には「部活動の時間」というのがあって、毎週、水曜日の6時限目があてられ、5、6年生は必ずどれかには入らなくちゃいけない。そのなかのひとつに「落語クラブ」というのがあったんです。それを、参加人数が少ない、という理由で選んだ。ただそのころのことはあまり覚えていないんです。

 『寿限無』や『弥次郎』といった話を無理矢理憶えさせられ、とにかく人前で吐き出す。それを小学校一杯やって、いったん落語との付き合いはそれっきりになった。

 中高で打ち込んだのは

 中学ではバスケットボール部に入りました。でもこれも、なんとなくというか……。いつもそうなんですが、それほど一生懸命という感じじゃないんです。どちらかと言えば、そのころ熱心だったのは、ラジオの方だった。

 落語との再会は

 高校にあがり、すぐラグビー部に入ったんですが、それを1年でやめてしまった。2年になりゴールデンウィークがはじまると、いよいよやることもなく、ひとり浅草をブラブラ歩いた。高校は春日部でしたから浅草は電車で一本です。そうして、本当に何の気もなく寄席にぶらりと入った。チケット代は1300円。映画より安いし、見たこともないから入ってみよう……。後になってプログラムを確認するとトリを務めたのは春風亭柳昇師匠——そのほかにも大勢の師匠方が出演していましたが、そのとき何より印象的だったのは、寄席の雰囲気。同世代皆無の異世界に、自分だけのものを見つけた、と興奮しきりでした。

 落語研究会が始動します

 高校に空き部屋があって、そこはもともと落語研究会の部室だった。でもそれは20年も前の話で、いまは誰も使っていない、というんです。それで、じゃあ僕やります、とはじめた。部室を開けると、戸棚には落語の本や辞典、テープがそのままになっている。それを見て、よし、やってみるかなと、小学校以来の気持ちが沸々と湧いた。

 当時好きだった落語家は

 高校のとき好きだったのは立川談志師匠だとか……。でもチケットなんか高くてなかなか買えない。そこで、お小遣いを2、3ヶ月分貯めては、ひとり東京の寄席を目指す、というようなことをしていました。

 日芸放送学科に進みます

 そのころはとにかくラジオが好きで、ラジオ制作とか、放送作家を目指していた。それで、それならここがいいだろう、と選んだ。落語はまだ趣味の域を出ていなかった。

 大学でも落語研究会に

 でもだからといって、落語家になりたい、とは思わなかったですね。というか、大学4年間を通して、何かになりたい、と強く思ったことがなかった。執着心がないせいか、あまり勉強もしなかったので、ラジオ制作の方でも軽い挫折をしていました。だから大学生活は部活一色でしたね。ほかの文化部の先輩とお酒を飲んだり、そういうことばかりしていた。でもそうすると世界が広がるんですよ。映画、本、芝居……ひとりでは出会わなかったことを沢山知りましたね。

 卒業の時期がきます

 芸術系大学の特殊性なのか、それとも僕のまわりだけなのか、就職活動をしている人はほとんど見かけませんでした。当然、僕自身もそういうことは一切考えていなくて、バイトとかでどうにかは生きていけるだろう……なんて思っていた(笑い)。

 でも実際、テレビの制作現場とかカメラマンとか、みんなバイトから入ってそのまま、というのが多かったんですよ。僕もテレビ局のADをしたりしましたが、それになりたいとかは全然なかった。

 落語家にはいつごろ

 卒業後ようやく、自分は何をしたいのか真剣に考え始めた。自分に出来ること、やりたいことといったら……、落語か。そうだな落語で生きていけるならいいな。ああ、落語家になりたいな——となった。

 目指す落語家像は

 どういう人になりたい、こういう落語をしたいというよりは、寄席に出たい、と思っていましたね。ふらっと歩みこんでみんなでゲラゲラ笑って……そういう空間ってあんまりないじゃないですか。そのどこか緩い感じが好きでね。結局僕は、朝から寄席でボンヤリぶらぶら見ているのが一番好きなんですよ。寄席に四六時中出て、15分だけ喋ってパッと帰っちゃう、そんなのがいいな、と純粋に思った。

 ご両親の反応は

 両親とはあまり喋らなかった(笑い)。東京に出ていましたしね。こっちから、落語家になる、ってもう一方的に。だから事後承諾に近いですね。

 修業時代、苦労は

 好きなことをしてるんだし、とくに大変と思ったことはなかったですね。うちの師匠は落語には珍しく放任主義で、あれこれ雑事をさせない。そんなことをしてる暇があったら、歌舞伎、映画なんでも見て勉強しなさい、稽古をしなさい、と言うんです。どうも先代以来の育て方らしいんですが、自由を良いことにボンヤリしようものなら、いま何を覚えてるんだい、ちょっとやってごらん——こうくるから気を抜けない。

 ですから自己管理は必要でしたが、そこはやりたくて入った世界ですからね。

 志す落語の姿は

 僕の場合は自分が喋っていて楽しいようにやっている感じですね。最近は若い人たちも客席に増えていますが、その人たちにもウケるように、ここをこう変えて、とか、構成を組み替えるとか、そういうことはしないです。あくまで自分が見る側ならこういうのが面白いだろう、というのを基準にする。ひとつひとつの基本を押さえたそのうえで、自分の感覚ならこのキャラクターはこうは言わないだろう、とか、こんなことを言いそうだ……とかね。

 だから若い人やトレンドに合わせるよりは、こんな感じなんですけどどうですかね、と提案するイメージですね。

 古典落語再現に難しさは

 落語はあくまでも大衆芸能ですから、ものによっては、どうしても時代に合わなくなってしまえばそれは淘汰されてしまうでしょうね。客席の反応が薄くなると、やっぱりみんなやらなくなっちゃう。

 師匠にとって落語とは

 たまに寄席に入って落語を見て、登場人物たちの鷹揚な様子に、ああこんなにボンヤリした人たちでも生きていけるんだから明日からまた頑張ろう、と心を溶かす。落語ってそんな温泉のような、足湯のようなものだと思います。

 新刊『いちのすけのまくら』について少しお話を

 週刊朝日の連載コラムをまとめたもので、テーマも落語に限らず、さまざまのお題を、ときに子ども時代も交えて語っています。いまはラジオ、高座、文筆と、3つをやっているんですが、ラジオでしゃべるときはこうして、書く場合はこう、高座では——と、自分のなかで全部つながっているところがある。ぜひ機会があればお手にしていただけたらと思います。 

 

しゅんぷうてい いちのすけ 1978年、千葉県生まれ。2001年、日本大学芸術学部卒業。同年、春風亭一朝に入門、前座名「朝左久」。04年、二ツ目昇進「一之輔」と改名。10年、NHK新人演芸大賞・文化庁芸術祭新人賞を受賞。12年、21人抜きの抜擢で真打昇進。同年および翌13年、国立演芸場花形演芸大賞・大賞を受賞。15年、浅草芸能大賞・新人賞を受賞。寄席を中心にテレビ、ラジオなどでも活躍。著書に『春風亭一之輔の、いちのいちのいち』『春風亭一之輔のおもしろ落語入門』ほか。演目を収録したCDに『芝浜とシバハマ』『今んところ、そのに』などがある。

 

 

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