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10代の地図帳】

朱野 帰子 さん(作 家)

 『わたし、定時で帰ります。』このタイトルにハっとさせられる社会人は少なくないだろう。団塊、バブル、氷河期、ゆとり……、まったく異なる断層を内包するIT会社のオフィスワーク、人間模様を描くこの小説の著者は、作家・朱野帰子さん(38)。モチーフと人物を細密に描出するその手管は、深く9年の会社経験に裏打ちされ、読むものを軽やかに作中へと誘う。鬼才の十代を訊ねた。

 東京のご出身ですね

 そうですね。それも親族みんな東京という生粋の東京っ子で。小さいころからほとんど移動することなく、生まれ育った中野で22歳までを過ごしました。一度だけ大学1年のときにほんの少しの間、祖父の家に間借りしたことがありますがそれぐらいですね。

 読書好きな少女だったとか

 それはもう病気のように好きでしたね。朝、親が起きると、すでに陽がこぼれはじめた窓辺に張り付くようにして本を読んでいる。幼稚園に行っても、小学校でもやっぱり本ばかり読んでいる……。親からもとにかく本を読むのをやめさせるのがすごく大変な子供だったと聞きました。

 家には特別たくさん本があったわけじゃなかったし、母も読書家というほどでもない。周りを見ても本棚がある家が珍しいような地域だった。実際、妹はまったく本を読まないですからね。だからもう本当に自然発生的な病気というかいわゆる活字中毒ですよね。幼稚園のときに母が先生に呼ばれて「あの子はちょっとおかしい」と言われた。まったく外で遊ばずに、ずっと幼稚園の本を読んでいる。それも漢字のある本を読んでいるから、意味は分かっていないだろうと言うんです。でも、いざ自分で子育てをしてみると、幼稚園の子でも結構漢字って読めちゃうんですよね。昆虫が好きな子が昆虫の名前を全部覚えるのと一緒で、活字を覚えるのがすごく早い子もいる……。で、小学校に上がる前の未就学児検診のときに、ものすごく近眼になってることが分かったんです。「検眼をするので一週間は本を読まないように」と医師に告げられた。その一週間がとてつもなく苦しかったというのは今でも覚えています。家じゅうの本を探し回り、見つからないと、家電の説明書や薬の効能書まで漁って読んでいた。

 見方によれば良い病気とも

 本人はそうなんですけど……、そうはいってもやっぱり日常生活に支障がある。まず近眼が悪化する。いまは軽くて扱いやすい眼鏡がたくさん増え、近眼の対処も楽ですが、当時は大ごとです。大学病院まで連れていかれ、虫眼鏡のように重くて大きい眼鏡をかけることになる。3者面談では、「いったん本を読みだすと学級文庫の棚全部を読み終えるまで外に出ない。ちなみに今は2周目です」と先生が母に報告しなければならず、かなり人間関係や共同生活に支障をきたしていました。

 中学時代の興味の中心は

 さすがに中学生になるとそこまで本一辺倒ではなくなってくる。でもそうすると今度は、それまで人間関係をサボってきたツケが出てくるんですよね。コミュニケーションをとろうにも一方的というか、つい自分の好きな本の話を延々としてしまう。でもわたしが住んだ地区は昔ながらの商店街が立ち並ぶ下町のような土地柄で、通う中学校もほとんどが本よりも運動好きな生徒だった。本を読んでも話す相手がいないんです。誰ともかみ合わず、話す相手がいない苦痛の時間。中学時代はそんな暗黒の3年間でしたね。

 小説家を志したのはいつ

 いつだろう……。みんな一度は、アイドルや小説家に憧れるじゃないですか。そこと、本当になりたいと思ったところの境目が自分でもちょっとよくわからないんですけど。ただ、まったく見るところのない生徒だったにも関わらず、「答辞にいいんじゃないか」と唐突に言われる。塾の先生に高校受験用の小作文を出したら、「コピーして取っておいていいか」と聞かれる。そういうことが積み重なって、ちょっとずつ「もしかしてこの分野が得意なのかな」と思うようになった。でも本当は、当時一世を風靡した少女漫画『動物のお医者さん』を読んで、すっかり心を奪われ、中学を卒業するときには「獣医になる」と心に決めていたんです。大学まで全部調べたんですよ。だけど、高校1年のときに、自分が致命的に数学ができないというのを思い知らされて。それがもうホントに「得意じゃない」とかのレベルではなくて、「クラスの落ちこぼれ」のレベルだったんです。見かねた先生が出題趣旨を教えてくれたにもかかわらず、平均点の半分しか取れないんですよ。一方、国語は何もしなくてもある程度できてしまう……。それで、もうこれは明らかに得意なほうに行ったほうがいいだろう、と。泣く泣く獣医の夢を諦めて、昔の早稲田一文の文芸専修文章を専門に教えるところに入ったんですね。

 大学では作家を目指して

 いきなり「作家になる」というよりは、まだ小説も書けていないわけです。一作も書いていないわけですから、とりあえず小説を書きたいなと思いつつ過ごすんですが、周りを見ても誰も小説を書いていない。「小説を書きたい」という人たちが集まっているはずなのに、誰一人ペンを取らないんです。習作を書いて発表する「合評会」のような授業もあって、そうするとみんな冒頭は書く。良さげな感じのおシャレな雰囲気の冒頭は書いてくるんですけど、結末まで書く人は1%もいなくて。わたしもずっとそんな感じでした。でもこんなこと言うのも何なんですが、みんな「小説家になりたい」と言う割には、小説を書くどころか読みもしない。なんなら課題小説も読んでこなかったり……。そんなぬるま湯のような空気があった。漫画『アオイホノオ』で、登場人物が「漫画家になる」と言いつつなかなか漫画を描かない場面が出てきますが、ちょうどあんな感じ。あの気分はすごくよく分かる。

 でも、文芸専修は卒論が小説でなければダメなんです。そこではじめて強制的に締切ができて(笑い)。なんとかひとつ書ききった。

 書いてみてこれはエライことだと思った。とても苦しい作業で、しかも書いているときはまったく面白くない。よくよく辛い仕事だということがわかった。あともうひとつは現役作家の方が講師の授業があったんです。そこで作家とお金の話を聞いた。それがとてもリアルな話で、出版業界のお金の配分の話をとっくり聞かされた。話では、確かに作家も売れれば儲かるんです。でももし売れなかったら……。それを聞いて「これはどう考えても無理だ」と思った。それでいったん小説家を諦め、とりあえず普通のサラリーマンになろうと決めて。

 就職活動の思い出は

 ちょうど就職氷河期だったので大変でしたね。もともとの労働意欲も低かったせいか、面接でもけっこう落とされて……。最終的には就職活動をすべて失敗して、「もう就職はしない」と言い出したわたしを見かねた父が、知り合いの会社を紹介してくれた。そこは全部で5、6人の新卒採用もしていないような小さな会社で、そこになんとか入れてもらうことができた。でもコネで入れてもらうのも問題があって……。やっぱりプレッシャーがすごいんですよね。好意で雇ってもらってるんだから利益を出さなきゃ、というのがつねにあるし、なにより顔をつぶせない。やめられない。結局7年間、どんなに辛くてもやめられなかったですね。あとで、もっと苦労しても普通に就職すれば良かった、とすごく後悔しました。だから若い人にはコネ入社は勧めません。

 7年に読書傾向に変化は

 当然読むものも大分変わりましたね。大学生のころは村上春樹とか、ちょっと現実から浮遊したファンタジーを好んでいたのが、エッセイ漫画や現代ものの軽めの小説を読むようになった。それも自分にすごく近い境遇のものを求める。たとえば田辺聖子さん。彼女は実際に会社で9年間働いている。そういう、働く女性の悲喜こもごもを描いた質の良い本を会社帰りに開く。というのも社会人になるとまず時間がないんですよね。それに仕事でも大量の活字を読まされて疲れている。現実の生活がきついとどうしても、フワフワした話には乗り切れない。かといって重い現実を突きつけるような小説も、明日からまた頑張らなきゃいけない心には負担なわけです。だからそれまで読んでいた明治文学なんかもまったく読まなくなりました。

 小説に戻るきっかけは

 会社員の生活がすごくきつかったと思うんですよ。「無駄は省け」「即役に立て」という圧力と、いつ首を切られるかわからない不安感。折しも正社員と派遣社員がまっぷたつに分かれはじめた時期で、「非正規雇用になったらどうしよう」と思うと背筋が凍る。つねに恐怖に駆られているような感覚で、仕事が楽しいとはとても思えなかった。そんな時代のなかで、たぶん精神が無意識に均衡を保つために始めたのが文章を書くことだった。ある日、急に文章が書きたくなり、友達に向けたブログや日記を始めた。そこからまた少しづつ小説のほうに戻っていきました。なので「小説家になりたい」と戻ったんじゃなくて、「書かないと死んじゃう」という感じで戻ってきたんだと思います。

 小説家デビューの経緯は

 小説を書くうちに、締切がないと終わらないな、というのが分かってきた。それで小説の学校というか合評会をやるようなところに行くことにして。そこに行くために書く、という目標を設定したわけです。学生の幾人かは本当に小説家を目指していて、「今度どこどこの賞に応募する」というような話を聞くうちに、やっぱりこれも締切を設けるという意味で、賞に応募してみよう、と思うようになって。そうして応募したのがうまくひっかかった。ちょうどそのころ、会社員をしながら小説を書けたら、というのを夢見るようになっていて、定時で帰れる会社を探し始めていたんです。だからすごく決意して小説家になったというより流れついた感じですね。

 まさか自分が会社の話とか、そんな世知辛いものを書くことになるなんて思いもよらなかったですけど(笑い)。でも結局それがわたしの原点、原風景になっているので。それに9年も会社員をやると、小説を読んでても会社の描写が気になって仕方がないんですよ。サラリーマン時代に、納得して読める小説を相当書店で探したりもしたんだけど、なかなか出会えなかった。そういう気持ちが根底にあって。どうしてもそこを埋めたいと思っちゃうんですよね。

 『わたし、定時で帰ります。』について聞かせてください

 わたしはエゴサーチしないので、自分の読者層に詳しくないんですが、会社員ものを書くと友人から「読んだよ」と感想をもらうことが多いんです。今回はテーマがテーマだけにいろんな反響がありました。なかには「コレ普通の話だよね」という人もいた。でもわたしが会社員時代に自分の境遇に近い本を求めたように、「ああ、コレあるある」っていう共感を求めて小説を読む人って多いと思うんです。次に出る本は専業主婦が主役で家事労働の話なんですが、これもまたそんなふうに多くの方の腑に落ちれば、楽しんでもらえたらと思っています。 

あけの かえるこ 1979年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。2009年「マタタビ潔子の猫魂」で第4回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。2012年発表の『海に降る』は後にテレビドラマ化される(WOWOW2015年)。他の作品に『駅物語』(2013)、『賢者の石、売ります』(2016)など。今年3月発表の『わたし、定時で帰ります。』は新時代を告げるお仕事小説として話題に。最新作は『対岸の家事』。

 

 

 

 

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